高木村 附持添新田(新編武蔵風土記稿)
○高木村(附持添新田)
高木村は、郡の艮(うしとら)にあり、郷庄の唱を伝えず、東は後ヶ谷村、西は奈良橋村、南は小川村、北も亦後ケ谷村及び宅部の二村に続けり、東西凡七町、南北二十町、元禄三年細井久右衛門検地せり、民戸五十二烟、ここも女は木綿縞をおりかひこをなすこと近村ほぼ同じ、
土性野土にて粗薄なり、水田はなく陸田のみなり、此村御料私領入会なれども、いつの頃より御料所となりしと云ことは傳へず、寛文年中は岡上次郎兵衛・近山五左衛門、延寶年中中川八郎左衛門、元緑年中細井九右衛門等次第に支配せり、私領は天正年中より酒井極之助・同郷三に給はれり、郷三が知行せる方は年代をしらず、上地となれり、今は大岡源右衛門御代官所にて、私領酒井清次郎の知行交れり、外に武藏野新田あり、東南は廻り田新田に境ひ、西は奈良橋新田、北は後ヶ谷・清水村等に限れり、ここは民戸なし、元文元年大岡越前守が検地なり、
高札場 小名字本村にあり、
小名 本村(中央なり) 砂(南方を云) 水窪(中央より東方なり)
山川 用水堀 南境を流、幅八九尺 この外悪水堀二条あり、
神社
山神社 除地、一畝、字中原と云所にあり、わづかなる祠、村内尉殿権現の別当、明楽寺の持
尉殿権現社 除地、一畝、字砂にあり、上屋二間に三間、内にわづかなる宮を置り、前に鳥居をたつ、
別当明楽寺 社地の東にあり、高木山と号す、真義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、草創の始を伝えず、本堂四間四方南向、本尊不動木の立像一尺二寸を置り、
寺院 地蔵堂 字砂にあり、二間四方、南向、地蔵は木の座像長五寸ばかり、
阿弥陀堂 同じ辺にあり、二間半に三間、本尊八寸許座像なり、
薬師堂 字がが峯にあり、二間半に二間、本尊五寸許、木の座像十二神を左右に置り、各長八寸許り、